4月14日、有志でめぐる廃線跡シリーズ研究会Vol.3 吉野鉄道・小房線と今井町の町並み散策 ルポ

2019年4月23日

研究会参加者の皆様

数日前からの天気予報では下り坂で開催日は雨との予報…。その日の朝のニュースでも雷も伴う横殴りの荒天という情報でした。非常に悪い気象条件の中でも安全で参加者の皆様が楽しんでいただけるように肝に銘じ早朝から準備をしていました。

皆様が来られる前より準備

早朝より橿原神宮前駅に出向き受付準備の依頼し、戻る途中に橿原神宮参拝を終えた福田さん(事務局)に会い引継ぎをした後、大和八木駅へ移動。

9時9分着で到着した「特撰牛肉弁当と伊勢茶」を新竹社長の浩子さん達から受け取り、講演会場となる橿原市今井町の華甍(はないらか)へ!直ぐに会場に起き橿原神宮前駅に!

橿原神宮前駅の受付

既に、福田さん福本さんなどが受付を開始し、既にたくさんの皆様が、散策を今かとばかり待っておられました。

研究会事務局の福田さん(左)と福本さん

10時前には全員受付を済ませまずは、橿原神宮前駅の東側1・8番線に皆様をご案内

小房線吉野鉄道の案内

廃線になった小房鉄道を語るには、まずは吉野鉄道の話から…。橿原神宮前駅の東側の1・8番線で皆様に詳しく説明させて頂きました。

大正元(1912) 年10月25日に吉野口・吉野 (現:六田)間の運輸営業を軽便鉄道として開始し、翌年の2年5月31日には「吉野鉄道株式会社」に商号を変更。

橿原神宮前・吉野口間が12年12月 5日に開業し、既設線電化も同日実施されたた め、橿原神宮前・吉野間の電車運転を開始。そして、今回の「有志でめぐる廃線跡シリーズ研究会Vol.3 吉野鉄道・小房線」の小房線は大正13年11月1日に畝傍・橿原神宮前間も電化し開業しました。

台車振替場の説明

標準軌(1435㎜)の橿原線と、狭軌(1067)の南大阪線・吉野線が乗り入れているが、南大阪線・吉野線の車両検査も、大阪線にある五位堂検修車庫で行われるために、橿原神宮前駅東側にある台車振替場で車両下部の台車を交換して、五位堂検修車庫に回送します。

この日は作業をしておりませんが、通常は車両のボディ本体を固定させた後に、台車取り外します。この取り外し作業は振替場の下がり、コンサートホールや劇場などに設けている奈落(床が下がる)のようになっています。そして仮台車と交換します。

吉野線0㌔ポストと台車振替場(後ろ)

こちらのレール(写真)が四線であるのも、台車と車両の軸が中央に合わせるように四線レールとなっています。これが三線になるとセンター軸がずれてしまいます。

標準軌と狭軌

この場所は橿原神宮前駅が統合になった昭和14年には台車振替場は無く、吉野鉄道のホームでした。

その後、映画「フォルトゥナの瞳」で、この橿原神宮前駅でロケをした様子なども説明し、構内の見学は無事に終えました。

伝統的駅舎  
まず橿原神宮前駅の歴史を説明

橿原線関係:大正12年3月21日開業 大阪電気軌道㈱ で、平端から橿原神宮前まで開通

吉野線関係:大正12年12月5日開業 吉野鉄道㈱ で、吉野口から橿原神宮前まで開通

南大阪線関係:  昭和4年3月29日開業 大阪鉄道㈱で、古市から久米寺(現 橿原神宮前駅)同時に大阪阿部野橋から吉野間に直通運転を開始

そして現在の駅舎は昭和15年が神武天皇の即位から2600年目に当たる一年前の昭和14年に、それぞれの駅を統合しました。建築家は村野藤吾氏で、特に、大和棟とう斜面のきつい屋根が特徴です。迎賓館(旧赤坂離宮)、志摩観光ホテル ザ・クラシック、ウエスティン都ホテル京都などの代表的は村野藤吾氏の建築物です。

橿原神宮前駅の歴史

大正12.3 橿原神宮前駅
 現在地の北西0.3㌔に大阪電気軌道が営業開始

昭和 4.3 久米寺駅(大阪鉄道)
 現在の橿原神宮前駅付近に大阪鉄道と吉野鉄道 の共同使用駅として久米寺駅の営業開始

 

昭和14.7  橿原神宮駅駅
  旧橿原神宮前駅と旧久米寺駅を廃止し、

     紀元2600年にふさわしい駅で営業開始

昭和45.3  橿原神宮前駅に名称を変更

駅舎についても詳しく説明し、一旦、東側の駅裏から小房線の廃線横を北へ散策開始

小房線廃線跡を説明

現在の橿原線東側の引込線(標準軌道)は、旧小房線で、軌間は異なりますが当時の面影を残した水路の橋台もあります。架線を支える鉄柱も昭和14年当時の物でこちらも合わせて歴史を感じ、頂きました。

畝傍御陵前駅や周辺

橿原神宮前駅から約1キロを歩くと畝傍御陵前駅に到達。この駅も橿原神宮前駅が統合した年の昭和14.7月に新しい駅舎となった。元々線路は西側約300m離れた場所で、現在の奈良県道125号橿原神宮公苑線と同じ場所に走っていました。当時は橿原線とは言わず畝傍線と路線登録していました。

木村 光宏さん ご提供

畝傍線当時から駅名が4度も変更になっています。

大正12.3畝火山駅

大正13.11畝傍山駅

昭和12.3神武御陵前駅

昭和14.7畝傍御陵前駅(現在の場所に移転)

橿原線付近から分かれ小房駅(廃止)を目指す

畝傍御陵前駅から八木西口駅に進むと畝傍北小学校があり、その手前には八木西口第10号踏切があります。ここから小房線緩やかに北東側にカーブします。この付近を何度となく歩きましたが、遺構などは見つかりませんでした。諦め天を仰ぐと鉄柱に小房線へ延びていたジョイントが残っていて、以前NHK「ブラタモリ伊勢」で私が出演をした際、タモリさんに説明したのと同じ内容でした。

そして、国道169号線と交わる地点を斜めに横断している場所が小房駅跡とのことです。

ここでも遺構が無いかと何度となく探し、またこの地域にお住いの年配の方々にお話を聞くと、皆さんのお話が各々異なりました。一旦再調査をしょうと、古地図や文献をしらべると、実は開業当初(昭和3年10月)の小房駅は国道169号線付近にあり、昭和14年7月に300m北西側(畝傍駅側)に移転した事が判明しました。

黒くなった部分は開業当時の駅跡 

小房線最大の遺構

その国道169号線から200m北西に進むと、小房線最大の遺構が現れます。

水路に架かっていた橋台です。平面的な場所にもかかわらず、高さ1m程もあるのは、なぜ?

この調査をすると、その先に飛鳥川があり、これを跨ぐため、徐々に傾斜が上げるので高さをつけています。

ちなみに飛鳥川を越えるのには33.3‰(パーミル:1000m距離に33.3mの高低差)あります。

そして飛鳥川を越えた先も住宅地が続きます。

JR畝傍駅

桜井線手前の敷地には、お洒落な住宅が建っており、付近の住宅と並びが違うようになっています。まさに鉄道敷地の曲線があった場所に造られたためです。

この付近も小さな水路があり、橋台(遺構)があります。その先で合流し、畝傍駅南側につながります。構内にレールは無いが、当時の施設の跡がそのまま残っています。

そして、駅構内にもホームがあり南側は小房線と思われる構造になっています。

資料には3線ほどの入換線があり吉野方面からきた貨車の入換もあったと掲載されており、付近にお住いの方も同様に話されていました。

当時の桜井線は全非電化で、唯一橿原神宮前駅方面からの小房線のみが電化であり、約30分間隔の運転し便利であったことが証明されています。

また、研究会のこの日は105系の行き違いも見られました。この光景もあと僅かにまり、皆さん写真に収めていました。

さて、畝傍駅の開業は明治26年です。現在の駅舎と貴賓室は、昭和15年の「紀元2600年祭」に合わせて作られたもので、この年には昭和天皇が、1959年にはご成婚間もない皇太子夫妻(今上天皇・皇后)が貴賓室を利用されました。

その貴賓室も今井町保存会のおかげで見学できました。

八木西口駅と隣接する桜井線の交差

八木町付近で最初に出来た駅は畝傍線(現:橿原線)八木西口駅で当時は八木駅ど呼ばれていました。この駅前には警察署などの行政機関が集まり、中心となった駅です。紀元2600年祭では、上本町よりこの八木駅(現:八木西口駅)を経由し、直接に橿原神宮前駅に急行列車が10分間隔で運転していました。

桜井線とのクロス部分ですが、鉄道は先に敷く線が平面で、後からが上を通ることになります。

しかし、畝傍線(現:橿原線)は大正12年で、その前に桜井線が明治26年でした。従いまして30年前の桜井線が後にできる、畝傍線(現:橿原線)を跨ぐように高架になっているのは何故かと…。

実は、西側に飛鳥川を越える高い橋梁と築堤があり、最初から高い部分を走っていました。その後に畝傍線(現:橿原線)が走り、桜井線の下をくぐりました。

また、当時の桜井線は、重量のある蒸気機関車などが走る為に、基礎の築堤や橋脚などは非常に頑丈に作り上げ、当時の建設技術が優れていることを証明しています。

県指定文化財の今井まちなみ交流センター「華甍」で講演を

講演は、前半と後半にの二回に分け、最初の一部はパワーポイントを活用し、非常に貴重な小房線の資料で詳しく説明をし、メインの後半は今回の散策に大変お世話になった今井町まちなみ保存会会長の「若林 稔氏」と私の講演をさせて頂き、参加した皆さんは熱心に聞かれていました。

その後、若林会長のご案内で今井町を歩き詳しく説明をされ、非常に成果のあった勉強会でした。

皆様のコメントをご紹介

今回も初耳事が盛りだくさんの研究会でした。小房線の廃線跡は街並を無視するように街路や田畑を斜めに横切る。その線路跡に細長く住宅が立ち並ぶ。航空写真で見ると不思議な光景。

畝傍駅は貴賓室を特別に見学させて頂きました。皇紀2600年に増築され今上天皇がご成婚の報告を神武天皇陵にされた際にも使われたそうです。

みなさん、こんばんは。今日も一日おつかれさまです。

今日は有志でめぐる廃線跡シリーズ研究会Vol.3 吉野鉄道・小房線と今井町の町並み散策、トークショー当日です。
5時おきで6時半前の特急に乗って、橿原神宮前まで。
ここで吉川さんと合流して、橿原神宮参拝。「今日、研究会ができることの感謝」を述べてきました。
おみくじは末吉でした。ここまでずっと大吉だったのですが、内容は悪くありませんでした。

集合場所の設営のため、橿原神宮前駅へ戻りました。福本さん、新竹さん、瀬崎さんのお手伝いをいただき受付開始。遅刻される方もなく、全員揃ってスタート。

荒天が予想されていたものの、大きく崩れることもなく、前半戦終了。福原さんによる小房線の解説、町並み保存会若林会長によるお話しとつづき、いよいよ今井町へ。雨に濡れる町並みはこれまた素敵です。
人生の大先輩である若林さんのお話は含蓄があり、大変勉強になります。
詳細は有志でめぐる廃線跡シリーズのホームページに追って掲載します。

大和八木駅19時05分発近鉄名古屋ゆき特急(118列車)で帰路に就きました。

この有志でめぐる廃線跡シリーズでは事務局や資料作り、ノベルティ(キーホルダー)、お弁当の掛け紙作りを担当させていただいておりますが、所詮素人ですので、みなさんに満足いただけるところまで達していません。私はもっと精進します。

みなさんの笑顔やアップされたFBを拝見させていただきますと、頑張った甲斐があったなぁと思えます。
参加のみなさんはもちろん、このチャンスをいただいている福原さんには感謝以外の言葉はありません。
私は幸せ者です。

鉄道の歴史が好きで、それを妄想して仮説をたて、資料で裏付けてゆくことはとても楽しく、そして、私のわずかな知識ですが、それを活かしてお役に立てることは、非常に満足が高いものです。
みなさんの満足が即ち私の満足です。
もっともっと勉強して、みなさんにもっともっとご満足いただけるよう頑張ってゆきます。

本日参加のみなさん、今井町のみなさん、本当にありがとうございます。

私の中のアイデアですが、大軌畝傍線(橿原線)の付け替え跡の研究も進め、ぜひ、研究会として、展開できるようにしたいと思います。
その際は「ただいま」と今井町の町並み散策を加えたいと思います。

四日市も先ほどから強い雨となりました。参加のみなさん、我々はツイています!

明日がみなさんにとって素晴らしい一日となりますように。素敵な夢を!おやすみなさい。

私は明日も「愛と感謝」を忘れずに、笑顔で元気に頑張ります。

日曜日に近鉄名物広報マン福原様とその仲間たちと一緒に小房線跡(昭和27年廃線になった旧吉野鉄道橿原神宮~国鉄桜井線畝傍駅間)廃線跡と今井町を巡るツアーに参加しました、
67年前に無くなった路線ですがところどころに残る遺構を見ながら畝傍駅まで歩きました、
畝傍駅では日頃非公開の皇族用貴賓室を、今井町街並み保存会会長若林様の特別なご配慮により見学させていただきました、
そこから今井町に行き、あら竹元祖特選牛肉弁当をいただいて午後からは福原様と若林様の楽しくためになるトークショウ、
最後は今井町内を散策しました。

今日は本当に鉄道が大好きな人たちが近鉄時代の後輩で大活躍中の福原さんの計画である廃線なった小房線と今井町の研修会を開催、先輩の私にも同席する機会を与えてくれました
もう何十年ぶりでしょう、本当に鉄道好きな素晴らしいマナーを持ち合わせた人たちと楽しいひと時を共有させていただきました
皆さんいい時間を頂き親しくお話しできたのを感謝いたします
少し残念だったのは時間が足りなかったことです
捲土重来、しっかりと時間をもって再度お会いしたい気持ちでいっぱいです
また機会を作って是非今井町に帰ってきてください お待ちしています

今日は小房線の廃線跡研究と今井町の町めぐりに参加させていただきました。
橿原神宮前からJR畝傍駅まで歩きました。廃線跡は少ないですが、その分、この辺を走っていたのではないかと想像したり考えたりすることができて楽しかったです。
今井町の町歩きは景観を大切にしているということを感じました。また、鉄道と町は大きな繋がりがあるというお話しもしていただけました。人に道を聞くだけでもコミュニケーションが生まれ、繋がりもできるということに気づきました。
鉄道は多くの人、町があって成り立つものであるということ、これが本来の鉄道であると感じました。鉄道の新たな視点を見つけることができるいい機会になりました。
今井町にはまた「帰りたい」と思いました。
企画していただいた皆さん、お会いした皆さん、ご協力いただいた皆さん、ありがとうございました。また、参加させていただきます。

今日は近鉄広報福原様・廃線歴史に詳しい福田様企画の
「吉野鉄道 小房線廃線跡を巡りと畝傍駅貴賓室特別見学」に参加してきました。
近鉄橿原神宮前駅に集合し手続きを行い
橿原神宮前駅で記念撮影を行ってから吉野鉄道小房線跡巡りへ。

天気予報では雨風が強く荒天になる予報でしたが
雨は小雨で何とか最後までもつことが出来まして
じっくりと散策することが出来ました。
廃線巡り後は今井町の華甍(今井町まちなみ交流センター)で
昼食と福原さんによる小房線についてご説明していただきました。

橿原神宮前駅は近鉄吉野線と近鉄橿原線が乗り入れており
吉野線は昔の吉野鉄道が前進、木材輸送メインで建設され
吉野から吉野口を結び、その後橿原神宮前へ延伸
そして、畝傍駅まで延伸されました、それが小房線になります。
また、大阪鉄道・大阪電気軌道・吉野鉄道と3社も合流!
現在、吉野線の0キロポストが0番線にあります。

そして畝傍御陵前駅へ。
橿原神宮前から畝傍御陵前駅手前まで道路側に
標準軌で線路が伸びているのがかつての小房線の名残です。
畝傍御陵前駅の橿原神宮前方面の駅にはかつて線路があった形跡もあります。
畝傍御陵前は4回も駅名変更を行っており、近鉄には300もの駅がありますが
これほど駅名変更を行った駅は畝傍御陵前だけだとか…。
畝傍が畝火 ←だったらしいです(間違っていたらすみません。)
また、駅舎が石造りで、ホームの柱がレールの廃材を利用。
架線柱も小房線の名残があり、昔は架線が繋がっていた形跡も残されています。
また、現在の畝傍御陵前駅は移設されています。
かつては畝傍線で、今よりも公園側(西側)にあり
紀元2600年祭の際に現在の路線に移設されました。

畝傍御陵前から飛鳥川方面へ。
小房線は右へずれてJR畝傍方面へ向かいます。
小房線の廃線跡はほとんど住宅地となり、残っているのはごくわずか…。
小川の鉄橋も住宅地の中にありました。
道路と比べてなぜ高いのか、それは飛鳥川を越えるためで
勾配は33パーミル、機関車が登れる限界です。
飛鳥川を渡り、ゆっくり下っていき、田んぼの中を走ります。
3ヶ月前は廃線跡らしきものが残っていたらしく
宅地開発になっていると聞いてショック…。
福田さんが「ここをゆっくり左へカーブしてました。」と。

JR畝傍へ向かいました。
小房線は桜井線と合流し畝傍駅へ入ります。
現在も畝傍駅構内には小房線跡まで架線柱が残っており
踏切も線路があった部分は埋められていますが
走っていたんだと確信します。
昔は貨物も乗り入れていたため、現在は敷地が狭いですが
機関車の入れ替えなど行われていたみたいです。

畝傍駅から吉野まで当時の時刻表を見てみるとそれなりに
本数があり、橿原神宮前までの時代と比べたら需要があったんですね。
しかし、大阪鉄道が吉野鉄道を買収し阿部野橋から吉野へ直通し
大阪電気軌道橿原線が現在の場所に移設と
大阪鉄道が吉野鉄道買収した後に小房線は廃止となりました。

また、橿原線の八木西口駅は当時は八木駅です。
昭和8年に大阪線桜井まで開業を機に、橿原線と交差する場所に
八木駅を開業し、旧 八木駅は八木西口に変更。
八木町の西側なので八木西口になりました。

若林さんからの余談ではありますが
大阪電気軌道が早く吉野鉄道を買収すれば狭軌から標準軌に
拡幅工事し京都から直通が実現したかもしれない。
大阪鉄道が早めの買収だったために実現にならなかった、と。

今回の小房線廃線跡は宅地になり少なかったですが
話を聞くと非常に奥が深い内容だったと感じました。
畝傍線が走っていた場所から現在の場所に移設した理由、
小房線が廃線になった理由など
橿原神宮 紀元2600年がすべて元になっていたんだと。
非常に勉強になりました。

また、畝傍駅では今回のメインである畝傍駅貴賓室を特別に見学させていただきました。
本来ですと見学は出来ませんが福原さんと今井町保存会の若林さんのお力により実現。
貴賓室は現在は使われていませんが
中は本当に素晴らしく言葉が出ませんでした。
(※写真はコピーや拡散の恐れがあるため載せません。)

福原様・福田様、本当にありがとうございましたm(__)m